<寄稿 杉浦浩美氏>「マタニティ・ハラスメント」が問いかけていること

杉浦浩美(立教大学社会福祉研究所特任研究員)

 「マタニティ・ハラスメント」という言葉によって、働く妊婦さんの問題が、社会に力強く発信されたことは、とても大きな出来事だと思っています。当事者である女性たちが「声」を上げ始めたこと、その「声」を、社会がきちんと受け止めようとしていることに、励まされる思いです。でも、この言葉はインパクトが強いので、誤解を生んだり、アレルギー反応を生じさせたりということも起こっています。なので、改めて、「マタニティ・ハラスメント」とはどういう問題なのか、ここで問いかけてみたいと思います。


私が、2001年にこの言葉を使って調査・研究を始めた当時、働く妊婦さんの大変さに関心を持ってくれる人は、今ほど多くはありませんでした。というより、働く妊婦さんの問題は長らく「見えない問題」としてありました。なぜなら、妊娠中の大変さやしんどさは、「語られないまま」だったからです。もし働く妊婦さんが少しでも弱音を吐けば、「だったら辞めれば」「無理しなくていいんだよ」と言われてしまうからです。だから仕事を続けたいと願う女性たちは、妊娠中にしんどいことがあっても、「大丈夫です。いままで通りにできますから」「迷惑をかけないようにやりますから」と、そんな「頑張り方」で仕事を続けるしかなかった。そして、そういう「頑張り方」ができない女性たちは、黙って辞めていくしかなかったんです。
だから私は「マタニティ・ハラスメント」という言葉は、そうした女性たちの語られないままの「しんどさ」や「切なさ」「悔しさ」をすくいあげる言葉だと考えてきました。多くの女性たちが「仕方ない」とあきらめてしまっていた「思い」を、やっぱり「おかしい」と訴えることのできる、そういう言葉だと思ってきました。

ハラスメントは「嫌がらせ」と訳されることが多いので、この言葉を、働く妊婦さんへの直接的ないじめを指す言葉として、理解されている方も多いと思います。そうすると、「そういうひどい上司もいるのか」「そういうひどい職場もあるんだな」と「他人事」のように考えてしまう方も多いのではないでしょうか。

よく「うちの職場の女性は、ニコニコ元気に働いているから問題ないよ」と言う人もいます。もちろん、妊娠期の症状は個人差の大きいものなので、妊娠中もさほど問題なく働ける人もいます。でも、もしかしたら、その女性はしんどい思いを隠して、かなり無理をして、「ニコニコ働いている」かもしれないのです。弱音を吐けない職場では、あるいは、吐いてはいけないと女性自身が強く思い込んでいるとすれば、そうするしかないからです。でも、そうした「頑張り方」が危険であることは、ご理解いただけると思います。「妊娠という身体の事情」を封じ込めるような「頑張り方」をしてしまうこと、あるいは、そうせざるを得ないこと、それもプレッシャーであり抑圧ではないでしょうか。それも構造的な「ハラスメント」だと考えています。

ではなぜ、そういう「頑張り方」をしなければならないのか。そういう頑張り方をしないと「追い出される」などということが、まかり通るのか。

それは「家族の事情」も「身体の事情」も持ち込まない、という日本の職場のルールが、今も強く生きているからだと思います。長い間、日本の職場には、育児や介護といった「家族の事情」も、妊娠という「身体の事情」も、持ち込むことが許されませんでした。そうした事情を持ち込まずに「仕事だけする人」が「よし」とされてきました。でも、そんなふうに何の「事情」も抱えずに働ける人は、もういないのではないでしょうか。育児も介護も「男性問題」となりつつある現在、そういう働き方に苦しんでいるのは、女性だけではないからです。

何より、「身体の事情」を訴えることができずに苦しんできたのは、男性たちではないでしょうか。「疲れた」とか「休みたい」とか言わずに、それこそ弱音を吐かないで、長時間労働に耐えてきたその結果、過労死や過労自殺という悲劇が生まれてしまったからです。この11月1日から過労死等防止対策推進法が施行されました。「働き方」そのものを見直していく、というのは男性にとっても「悲願」ではないですか。

こう考えると、「マタニティ・ハラスメント」が働く妊婦さんの問題だけではない、ということがわかっていただけると思います。「妊娠という身体の事情」を「あたりまえに」生きられる職場、それは、「いろんな事情を抱えた人たちが働ける職場」でもあると思います。「事情を抱えながら働ける職場」、それを実現させるために、みんなで知恵をだしあいませんか?