<体験談 Fさん 6>子どもが3歳になるまで続いたマタハラとの闘いの日々
子どもは眠たくなってくると、段々甘えたくなるものです。特に乳飲み子の場合はそれが顕著で、日が暮れると母を求めてかなり泣いていたようです。
パートナーは暫く遊んだりあやしたりして、もうどうしようもなくなると、「母ちゃん迎えに行こうか」と最後の手段に出ます。都心を越えて私の勤務先まで、ちょうど授業が終わるのを見計らって車で迎えに来てくれました。
弁当を持って来て、車中で大盛りのスパゲッティなどを食べながら、授乳。そのうちに子どもは寝てしまって、静かに家へ帰るという週末でした。
そんな勤務形態も新年度には解消されるかと思っていましたが、やはり補習担当だとの提示に、愕然としました。
それから再度団体交渉をしましたが、学校側の態度は埒があかないため、都庁の労働委員会にあっせんを申請しました。
労働委員会では、双方の聞き取りをし、双方に言い分を伝えて話し合いを重ねて行きます。しかし、学校側としてはすでに「妊娠出産による解雇」についてはなかったことになっており、すでに休職の間に雇った人員で充足しているので正規授業に戻れないという立場を主張するだけでした。
もちろん理事長自身が交渉に出てくることは一切なく、代理人として弁護士とかつての男性同僚(同年代)が昇格して参加。その名前や顔を見る度、「本当は独身男性を採りたかった」と言い放った理事長の言葉が、幾度となく脳裏に蘇りました。
その後あっせんを何回重ねたことでしょうか。
1年が空しく過ぎ、その後、なんとまた新年度も同じように過ぎようとしていました。労働委員会のあっせんには法的な罰則が課せられるわけでもないため、学校側はのらりくらりとこなしているだけのようでした。理事長に楯突いた奴は戻さない、という態度があからさまでした。
このままずっと正規授業に戻れない虚しさに、私自身あきらめの気持ちが大きくなっていました。
その頃、もともと私とパートナーはかねてから自給自足の生活をしたいと思っていたため、パートナーは職を辞め、障碍を持つ兄弟などと共に暮らせる土地を探していました。しかし東京近郊ではなかなか条件に見合う土地がなく、どうしようかと思っていた矢先、遠くA県の学校に勤める友人から教員として来ないかと誘いがありました。
そこなら田舎で暮らせる、正規授業にも携われる!と思いその学校へ行くことを決めました。しかし件の学校との契約は翌年の年度末(1月)までだったため、週の前半3日はA県へ行って教壇に立ち、週末は東京に帰ってくるという大変な毎日になりました。もちろん子どもの授乳もあるため、一家そろって布団など最小限の持ち物を車に積んでの、さながら民族大移動でした。
もう新しい生活に、切り替えよう。
これ以上あっせんを引き延ばす利点はない、という判断で調停に応じ、10月に協定書を結びました。協定書には、私の希望に添えなかったことに対する形だけの「遺憾の意」があり、そして幾ばくかの解決金が支払われました。
そして1月末には退職。
長かった闘いが、終わりました。子どもは3歳になっていました。
結局初めて受け持った学生の卒業にも立ち会うことが出来ず、学校に戻れない間に事情も話されず、そのうち「先生は辞めました」とまで言われていた学生たちの気持ちを考えると、皆んな、さぞ酷い先生だと思っていると思います。ルーム長をしていた学生には、
「自分たちが卒業するまで、妊娠を待ってくれるべきだった」
と、言われました。裏切られた、と感じたようで、自分たちのことを考えていない、と言われました。
それは自分でも何回も考えたことでした。出来ることなら、良い時期に妊娠したかった。でも学生は毎年新しく入学してくるので、いつなら良かったのだろうと思うと、良い時期などある筈もありませんでした。そもそも女性教員が、仕事と妊娠出産、育児を抵抗なく速やかに両立させる体制は全くなかったのですから。
それでも最後の授業の日には、補習授業に参加していた学生達から花束を貰いました。補習に出ていなかった、切迫流産前の何ヶ月かだけ教えた学生も来てくれたことも本当に嬉しかった。それはその後も励みになりました。
(つづく)
ペンネーム:Fさん
対処方法:労働組合に相談 労政事務所(労働相談センター)に相談